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furaha

ハンドメイドのニット小物などを制作&販売しています。

命日

今日は父の命日。
社会人となってから父と私は理解をしあえる間柄になったように思う。

北九州市で生まれ育った父は、いわゆる川筋気質なところがあり
義理を重んじる人だった(人情はそうでもない)。
ある日、勤めていた会社で自分よりも年下の人がリストラされる事態となり、
勢いで「それなら自分が辞める!」と啖呵を切り
仕事を辞めて帰って来てしまった。
家を新築したばかりなのに無職になった父。
当時、私は中学生。
父はその後新たな勤め先をみつけたものの以前どおりの生活には戻れず、
それからの家族の苦労は相当なものだった。

そんな父に一時期は反発していたが、
会社員として勤めながらも家では一切愚痴を言わない父の苦労が
働き始めてから多少は理解できるようになり、
それと共に父との距離も近付いて行った。
人のために会社を辞めたことも、私には到底できないことだと
今となっては誇らしく思う。

そんな父にがんが発覚したのはいつだっただろうか。
治療をし状態も良くなった時に、
社員旅行程度しか行ったことのない家族で
部屋付き露天風呂と広い部屋のある湯布院へ旅行する計画をし、
出発が近付いた矢先に状態が悪化して、結局行くことはできなかった。

そこからは、せん妄状態や食べては戻すを繰り返すようになり、
いよいよ状況が悪化した時、医師から眠らせるという選択肢があることを
聞かされた。

うとうととした状態が続き、痛みは分からなくなる。
ただ、そのまま意識は戻らない。

しばらく様子を見ることにしたが、起き上がれなくなり、
意識が朦朧として、時に今日は話せるなと思う状態の時には吐き続ける。
ただただ辛そうな父を前に、私たち家族は医師の提案を受け入れることにした。
治療は選択の連続で、その都度「選択した方が正解なのだ」と
思うようにしてきたように、その時もそれが最良の選択だと信じて。

薬を入れた日、私は病院に泊まって長い間父と話した。
楽しかったことは何か、心残りは何か。
父とは、しっかりと話せたと思う。

それから数日後、父は眠ったまま旅立った。

だけど今、あの選択は自分が楽になるための選択だったのではないかと
思うことがある。
父は、嫌だったのではないか。

薬を入れる前、朦朧として話もできない父の目から涙が流れたのだ。
もしかすると話せないだけで、意識ははっきりとしていたのではないか、
父はこの状態でも生きたかったのではないか、とどうしても思ってしまう。

一生答えの出ない今、胸に重りを抱えたまま生きることが
あの時判断をした私に唯一できる償いなのだと思う。

お父さん。
痛みとお別れして、空の上で元気に過ごしていることを願います。
いつか会いましょう。



命日にお墓参りをした後、秋桜を見に行きました。
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